“許される限り長くシリアに関わっていきたい” -駐在スタッフが見つめたシリア支援10年の道のり<前編>
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2014年にワールド・ビジョン・ジャパンに入職して以来、ヨルダンに10年駐在し、シリア難民支援やシリア国内支援のプロジェクト・マネージャーを務めてきた渡邉裕子スタッフ。この10年は、内戦や地震、政権崩壊と、激動するシリアを隣国から見つめ、できることを模索し続け、寄り添ってきた歳月でした。
ガンジーは、「平和への道はない、平和こそが道なのだ」という言葉を残しています。シリア支援の現場に「長く関わりたい」と当初から決めて歩んできた渡邉スタッフに、9月21日の国際平和デーを前に、この10年の道のりと、そこで見えた希望や課題についてじっくり話を聞きました。今回のブログは、インタビュー形式でお届けします。(取材・構成 飯野真理子)

決意を胸に 隣国ヨルダンへ
―シリア支援に携わろうと決めた理由は?
援助の世界に入った時、アフガニスタンで仕事を始めました。シリアも紛争の影響を強く受けた国なので、アフガニスタンで私が見たり得たりした知識を活かして、シリアの人たちの助けになりたいと思い、ワールド・ビジョンの業務に応募しました。
ヨルダンでは、シリア難民とヨルダンの子どもたちの教育や社会統合を支援するプロジェクトのマネージャーとして、スタッフや予算の管理、現場のモニタリングなどを担当しました。当初、日本人は私ひとり。直属のスタッフには、教育担当とチャイルド・プロテクション(子どもの保護)担当のコーディネーター、そしてアシスタントのヨルダン人スタッフがいて、その下には多い時で5校の補習授業を担当する先生など、35人がいました。シリア難民、そして支援するヨルダン人スタッフを率いて、どうやったら気持ちよく働いてもらえるか、一人ひとりを立てながらチームをまとめ、仕事を回していく難しさがありました。

―シリアから逃れてきた子どもたちの様子は?
空爆や戦闘が激化し、命からがら逃げてきた家族が多く、トラウマを抱えた子どもたちもいました。ある時、シリア難民の子どもがナイフを持って学校に来たことがあったそうです。それは自分を守るためのものだったんです。先生が見つけて叱り、取り上げようとした時に、その子が抵抗したという話を聞いて、「ヨルダンはもう安全なはずなのに、この子にとってはまだ身を守るものを手放せないのだ」と感じました。親御さんから「子どもが暗闇を怖がる」という相談を受けたこともあり、紛争の影響が子どもたちの心に出ていることを実感しました。

―2014年から本格的に始まった教育支援では、どんな活動を行い、どんな成果があったでしょうか?
紛争によって教育が中断され、勉強が遅れてしまったシリア難民の子どもたちを多く受け入れているヨルダンの学校現場への支援を続けました。児童数が増えたことによる現場の混乱を避けるため、ヨルダンの教育省は午前にヨルダン人、午後にシリア人という二部制をとっており、その空き時間を活用して補習授業を実施しました。
ワールド・ビジョンが教育支援に入った公立学校では、教員や保護者から「子どもたちの試験の点が上がってきている」「成績が良くなってきている」という報告や、「最初は字も書けなかったのに、もう目標に到達した」という話を聞き、支援の手ごたえを感じることができました。

普段は別々に学んでいるシリア人とヨルダン人の子どもたちですが、夏休みや冬休みなど、学校が休みの時に、一緒にアクティビティを行ったり、サッカー大会を開いたりして、シリアとヨルダンの子どもたちが親しくなれるように心がけました。最初は緊張もあったようですが、学校の先生によると打ち解けるのも早かったそうです。そうした様子に、私たちのプロジェクトでやってきたことは活かされているかなと思いました。

手探りで立ち上げたシリア国内支援
―2019年からはシリア国内の事業に取り組んできましたね。シリアに入れず、遠隔で活動を進める中で、特に大変だったことは?
一番プロジェクトに影響を与えたのは、2020年に米国で施行された「シーザー法」です。これは、弾圧や虐殺に関わった政府側の人たちに制裁を課すための法律でした。このため、当時のシリア政府を支援することにつながるということで、学校の修復などの支援がしにくくなり、頭を抱えました。人道支援活動をしたいと思っても、さまざまな見方があり、こうした制裁に左右されることもありました。
次に起きたのが、新型コロナウイルスの感染拡大でした。私たちはシリア国内でも補習授業を実施しようとしていましたが、対面での教育活動は一切禁止となりました。さらに、県をまたぐトラックの物資や人の移動も制限され、物理的に遮断されてしまいました。ワールド・ビジョンが契約した先生がリモートで子どもたちに指示を出し、子どもたちがそれに応えて課題を提出する形で活動を続けましたが、シリア国内は通信ネットワークは安定しておらず、親のスマートフォンを親が使わない時間に利用して学ぶ状況でした。前もって「この時間に先生がメッセージを送ります」と伝えても、時間どおりに参加できないことも多い。それでも「できる範囲でいい」とし、親御さんに「子どもが勉強する習慣を見守ってください」とお願いしていました。私自身もヨルダンからリモートで支援していたので、なかなか現状をつかみきれない難しさがありました。

―その後、活動はどのように展開していきましたか?
2年目以降、支援の内容ががらりと変わって、シリアの北西部での水衛生プロジェクトを2024年まで行いました。国内避難民のキャンプで、安全な水の供給、汚水、汚物、トイレの水をくみ取ることや、清潔に保つための、石鹸、食器洗い、洗濯洗剤やシャンプーなどの入った衛生用品キット、スポンジ、タオルを配るなどの活動を、2020~21年は、新型コロナウイルス予防の啓発活動もあわせて行っていました。時々空爆や、治安の悪化が起こりましたが、生きるのに必要な水衛生分野の活動を続けていました。また、2022年から2024年にかけて、食糧危機に対応するため5歳未満の子どもたちと妊産婦を対象に栄養改善のプロジェクトも行いました。

2022年に、3年後を見据えて活動をしていくプログラムが立ち上がり、再び教育にシフトしていこうということになりました。3年プログラムの1年目は、学校修復を行い、2年目、3年目は学校のマネージメントの支援として、先生の給料を負担したり、先生の教材、子どもの文房具セットなどを支援したほか、社会心理支援や、レクリエーション活動を通して子どもたちの心理支援も行いました。
そうした過程で、2020年にはシリア南部で234人の子どもを対象とした事業を実施し、2022年から2024年にかけてシリア北西部の公立学校で最大で2,902人の子どもに支援を届けることができました。

未曽有の大地震 72時間後の沈黙
―シリア国内支援を軌道に乗せようとする中で起きたのが大地震でした。当時の状況を教えていただけますか。
地震は本当に大きな出来事でした。地震はトルコ南部とシリア北部に壊滅的な被害を与えたのですが、ワールド・ビジョンはシリア北部やトルコ南部のガジアンテップにも事務所があって、そこにいたスタッフの中には避難所に身を寄せた人もいました。シリア北西部は特に影響を受け、今まで実施していたプロジェクトはストップし、緊急支援に切り替わりました。

しかし、救援物資が決定的に不足していました。人々は、内戦下でブルドーザーが足りない中、瓦礫を撤去しようとしたり、救急車も不足する中で必死に救出作業を行っていました。しかし、生死を分ける72時間を待たずして、シリア北西部の燃料が尽き始めたのです。地震の2日目くらいから、同僚から「燃料が足りない」「燃料はどこから調達できるか」「支援物資は来ないのか」と、悲痛なメッセージがチャットで届きました。
物自体が不足していたため、現場では分け合いながら使っていたらしいのですが、それでも足りなくなり、一台一台重機が使えなくなっていきました。「また停止した」「また止まった」といった情報が次々に入ってきました。
結局燃料は届かず、72時間が経過。その瞬間は、何か静寂というか、みんなが無力感を感じた瞬間だったのではないかと思います。私も遠く離れていて現場に行けず、行ったところで力になることは難しかったと思うんですが、もどかしい気持ちがとても強かったです。内戦の影響で物資の移動自体が困難だったため、そうしたことが重なって被害が大きくなってしまったのもあると思います。
—悲惨な状況で奔走する現地スタッフを後方支援、心がけていたことは?
シリア国内のスタッフは、自発的に動いて避難所の支援などを行っていました。後から知ったのですが、その中には家族の安否がわからない人もいました。トルコに妹がいるスタッフは、長く安否が不明の状態が続き、後に妹が亡くなっていたことを知ったそうです。家族の安否がわからず居ても立っても居られない状況だったと思いますが、目の前にいる人々のためにひたすら支援に尽力する同僚たちを尊敬します。

ワールド・ビジョン創設者のボブ・ピアスが「”何もかも”はできなくても、”何か”はきっとできる」と言っていますが、シリアのスタッフも、目の前のことに向き合い、全力を尽くすという思いで動いていたのではないかと思います。
私の担当は教育でしたが、学校が休校になったため、ヨルダンからできることとして、緊急物資の調達や、現地で信頼を築いている、状況にも精通した提携NGOの選定などを行いました。私は日本からの出向という立場で、日本からの支援がどうなっているかを聞かれるので、シリア事務所の人に状況を話し、また、心がけていたことの一つとして、「日本の人たちはあなたたちのことを気にかけているよ」「忘れていないよ」「シリアのことを世界中の人たちが心配しているよ」という思いを、伝え続けました。

~後編に続く~
後編を読むにはこちら
- 歴史の転換点に立つシリアにこれからも関わり続ける
- シリア人同僚たちと共に願う未来
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