インドシナ難民とは?ボートピープルとの違いや日本での受け入れを解説
- 難民
- #難民
この記事でわかること
インドシナ難民は、1970年代にベトナム、カンボジア、ラオスの社会主義体制への移行に伴い、迫害を恐れて国外に脱出した人々です。特にボートピープルと呼ばれるベトナム難民が海路で日本に到着しました。日本は1980年から2005年まで大規模に受け入れを行いました。
難民に関心を持った人なら誰でも、一度はインドシナ難民について聞いたことがあるのではないでしょうか。日本でも過去に大規模な受け入れが行われたため、日本の私たちにとってインドシナ難民は最も身近な難民と言っていいかもしれません。
この記事では、インドシナ難民とはどういった人たちを指すのか、インドシナ難民について語られるときによく耳にする「ボートピープル」との違いや歴史的背景を含めて解説します。さらに日本での受け入れ数や日本が行った支援も紹介し、最後にはインドシナ難民の出身国の現状とそれに対する支援についてもお伝えします。
インドシナ難民とは?流出の背景や「ボートピープル」との違い
はじめに、インドシナ難民とはどういった人々のことなのかをきちんと把握しておきましょう。ここでは、インドシナ難民という言葉の指すものと、その流出の背景を解説し、インドシナ難民とボートピープルとの違いについても触れています。
インドシナ難民とは
1975年のベトナム戦争終結前後、ベトナム、ラオス、カンボジアのインドシナ3国が社会主義体制に移行しました。インドシナ難民とは、新体制の下で迫害を受ける恐れがあるといった理由で、この時期にこの3カ国から国外に脱出した人々です。
インドシナ難民の総数は144万人にのぼるとされますが、このうち130万人は、アジア地域の難民キャンプ経由あるいはボートでの移動を経て、アメリカ、オーストラリア、カナダ、日本といった国々に移住しました(注1)。
インドシナ難民流出の背景
ベトナムでは1954年の南北分断以降、反政府ゲリラ活動の活発化やアメリカの軍事介入を受けてベトナム戦争が拡大。1975年4月にサイゴン(現在のホーチミン)が陥落したことで戦争は終結しましたが、終結前後から新体制下での迫害を恐れた人などが国外へと流出し始めました。
カンボジアも1970年代初頭から内戦状態にあり、1975年4月に首都プノンペンが陥落したことを受けて社会主義体制に移行。ポルポト率いるクメールルージュ新政権は、旧政権関係者などの大量粛清や都市住民の強制移住など急進的な改革を断行したため、多くのカンボジア人が難民となって隣国タイへと逃げ出しました。
さらに、1979年1月には反政府勢力によって政権が打倒され、倒されたクメールルージュ側がゲリラ戦を展開したことで、再びカンボジア難民がタイへと流入しました。
この2カ国と隣接するラオスにもこうした政変の影響がおよび、1975年12月に王政が廃止されて社会主義へと移行。これを受け、旧政権関係者や社会主義体制に不満を持つラオスの人々が、難民となってタイへと避難しました(注1)。
インドシナ難民のうち「ボートピープル」とは
インドシナ難民についての話では、「ボートピープル」という言葉がしばしば聞かれますが、ボートピープルはインドシナ難民と同義ではありません。ボートピープルとは、インドシナ難民のうちボートに乗って海路で避難したベトナム難民たちを指します。
ボートピープルの大半は、タイ、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピン、香港などの東南アジア諸国に到着しましたが、外国船に救助されて日本に上陸した人もいます。日本に上陸したボートピープルの数は1975年に9隻126人、翌1976年には11隻247人でしたが、1977年には25隻833人と急増し、それ以降1979年から1982年までの4年間は毎年1,000人を超えるボートピープルが日本に到着しました(注2)。
インドシナ難民の日本での受け入れ
ボートピープルが日本にもたどり着いていたことはすでにお伝えしましたが、日本が受け入れていたインドシナ難民はこれだけではありません。続いては、日本におけるインドシナ難民の受け入れについて、その総数や受け入れの経緯、日本到着後の支援という3つの観点から解説します。
インドシナ難民の日本での受け入れ数
外務省が公表している1978年以降の日本でのインドシナ難民の定住受け入れ数は、次のとおりです(注2)。
種別 | 人数 | 全体に占める割合 |
---|---|---|
ボートピープル | 3,536人 | 31% |
海外難民キャンプ滞在者 | 4,372人 | 41% |
合法出国者(ODP) | 2,669人 | 21% |
元留学生など | 742人 | 7% |
合計 | 11,319人 | — |
なお、表にある合法出国者とは、ベトナム政府と国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が交わした覚書により開始された「合法出国計画(Orderly Departure Program、通称ODP)」と呼ばれる枠組みの下でベトナムを出国した難民たちを指します。
ODPは、ベトナム国内に滞在する人々のうち、海外にいる家族との再会等を目的とする人々に合法的に出国を認めるというものでした。これは、ボートピープルが漂流中に遭難したり海賊に襲撃されたりする事態が発生していたことを受けて始まった計画です。
日本ではインドシナ難民の受け入れをきっかけに難民との関わりが深まり、1981年に難民条約に加入、翌1982年に難民認定制度が導入されました。この制度のもと、2018年末までに合計750人の条約難民を受け入れているほか、2010年に開始した第三国定住の枠組みのもとでは、2019年までに194人の難民を受け入れています(注3)。日本が受け入れたインドシナ難民の数は、このどちらと比べても格段に多いことがわかります。
インドシナ難民を日本で受け入れた経緯
1975年にボートピープルが日本に到着した当初、日本政府は一時的な滞在のみを認める方針をとっていました。しかしながら、インドシナ難民の流出が続きその数が増加するなかで、日本でもインドシナ難民の定住を認めるべきだという意見が強くなりました。
こうして、1978年4月に、条件付きで定住を認める決定が下されたのです。当初はベトナム難民のみが対象でしたが、カンボジア難民およびラオス難民にも対象が拡大されたほか、当初は設定されていた定住枠も撤廃されるなど、条件は徐々に緩和されました。
その後、1980年にはODPにもとづくインドシナ難民の定住受け入れも認められ、日本におけるインドシナ難民の受け入れは2005年まで続きました(注2)。
インドシナ難民への日本の支援
1979年10月に、日本政府はインドシナ難民の定住を支援する方針を閣議決定しました。これにもとづき、アジア福祉教育財団に難民事業本部が発足し、政府から委託されたインドシナ難民の定住促進のための事業が始まりました。
この体制のもと、兵庫県姫路市、神奈川県大和市、東京都品川区の3カ所に定住促進のためのセンターが設置され、難民たちの受け入れを実施。センターではさらに、日本語教育や職業紹介、職業訓練といった支援も展開されました。なお、インドシナ難民の流入が終わったことを受けて、3つのセンターは現在までにすべてが閉所しています(注1、注2)。
インドシナ難民の出身国が抱える問題と日本からの支援
インドシナ難民の流出はすでに終わり、1970年代当時の要因による難民問題としては終結しています。しかしながら、流出開始から10年以上がたった1987年からは、生活苦を逃れる出稼ぎ目的のボートピープルが増加するという事態に陥ったという事実も、見過ごすべきではないでしょう(注2)。この事例に見られるように、インドシナ難民の出身国にはいまだに課題が残されており、国際社会からの支援も展開されています。
インドシナ難民の出身国カンボジアの貧困
インドシナ難民の出身国の1つであるカンボジアは、開発途上国の中でも特に貧しいとされる後発開発途上国46カ国の1つに数えられます(注4)。そして、カンボジアの貧困には、ポルポト政権時代の政策がとても大きく影響していると言われています(注5)。
ポルポト政権下では、知識人を中心に100万人とも200万人とも言われる人々が虐殺されました。眼鏡は知識人のシンボルとされ、真っ先に殺されていったという話もあります。学校も大部分は破壊され、勉強をする場所もありませんでした。
さらに、ポルポト政権下での無計画な集団農場により荒らされてしまった農地もあります(注6)。こうしたクメールルージュ時代の政策の影響で、その後のカンボジアは深刻な人材不足やインフラ不足に直面したのです。
ポルポト政権が崩壊した直後には国際社会から寛大な人道支援が行われましたが、1982年に国連によって緊急事態の終了が宣言されると、カンボジアの新政権を承認しない西側先進諸国や国連からの援助は途絶えました。このような国際社会における孤立も、現在のカンボジアの貧困の主要因とされています(注5)。
カンボジアの貧困地域でのワールド・ビジョン・ジャパンの支援
ワールド・ビジョン・ジャパンは、カンボジア国内の2つの貧困地域で、チャイルド・スポンサーシップを通した支援活動を行っています。
このうちの1つで2010年から支援を継続しているカンボジア北部のトモ・プオ地域では、住民の多くが農業に従事。しかし、11〜4月までの乾季には農作物がほとんど収穫できず、毎日の食事にも事欠く世帯が出てきます。家族が出稼ぎに行っている世帯の割合は39%に達し、安全な水源から水を得ることができない人の割合は97%です。
ワールド・ビジョンは、このトモ・プオ地域において、保健・栄養改善、水衛生、教育などの分野で支援活動を展開しているほか、出稼ぎ労働者の増加という課題に対応するため、貧困世帯向けの支援も行っています。
例えば水衛生の分野では、ワールド・ビジョンの支援により、6,000人以上の住民が家から30分以内の場所で清潔な水を得られるようになりました。このおかげで、女性や女の子が水くみに行く時間を減らすこともできています。
カンボジアの貧困を解消することを目指し、ワールド・ビジョンはこれからも、カンボジアの貧しい地域での地道な支援を続けていきます。
チャイルド・スポンサーシップでカンボジアやベトナムの子どもを支援する
ワールド・ビジョンは、カンボジアのトモ・プオ地域での支援活動と同様のチャイルド・スポンサーシップを通した支援活動を、ベトナムでも展開しています。チャイルド・スポンサーシップは、月々4,500円、1日あたり150円の継続寄付プログラムです。
チャイルド・スポンサーになっていただいた方には、支援地域に住む子ども、”チャイルド”をご紹介します。支援金はチャイルドやその家族に直接手渡されるのではなく、子どもの人生に変化をもたらすことを目指した、さまざまな支援活動に使われます。活動は、10~15年かけて、地域に寄り添って行います。
チャイルドは、皆さまと1対1の関係を育み、支えられていく存在です。支援地域がどのように発展し、チャイルドがそこでどのように成長しているかという支援の成果を、毎年お送りする「プログラム近況報告」と、チャイルドの「成長報告」を通じて実感していただけます。
子どもたちが皆等しく健康で安全な環境で育ち、貧困によって教育の機会を奪われることなく未来に夢を描けるように、チャイルド・スポンサーシップへのご協力をお願いいたします。
ワールド・ビジョンの活動にご関心を持っていただけた方は、ぜひメールマガジンに登録ください。月に1回、お届けします。
SHARE
この記事が気に入ったらシェアをお願いします